アドベンチャー・ロマン
コンピュータの未来と少年の冒険。
 バベルの塔 竹太郎
第一章  マルセイユからの絵ハガキ
 
 森田ミノルは昨年春、晴れて県内有数の進学校に進学したが、高校1年の3学期に不登校になった。
もう半年も自分の部屋にひきこもっている。
 5月のある日、ミノルの家に、マルセイユに住む伯父の清水澄男から絵ハガキが届いた。
地中海の眩しい陽光の中、美しい海岸風景を望みつつ数隻のヨットが優しい風を受けて走っている
写真であった。
 ミノルのこともあって毎日沈んだ気持ちでいた母の雅代は、その絵ハガキを見て、
生活に追われてすっかり忘れていた若いころの夢や憧れの気持ちを思い出した。
 ミノルは、エリートコースを歩んで大会社の部長になった父の考え方、生き方に反発していて
もう何ヶ月も口を利いていない。雅代は、自由な生き方を選んだ澄男兄さんだったらミノルと
話が合うかも知れない、ミノルのSOSを兄に聞いてもらえたらと願った。
 雅代は早速兄に、ミノルの不登校について相談の手紙を書いた。しばらくして返事の手紙が届いた。
母子2人でマルセイユに来てみないかというのである。
その中でマルセイユ近郊の田舎に最近できたユニークな学園のことも紹介されていた。
第二章  ザクロ
 「ミノル。起きてるの? ちょっと話があるんだけど」
ミノルの部屋からは返事がない。
「ミノルー」雅代の声は大きくなった。
「なあに」迷惑そうにミノルが答えた。
「入っていい?」「・・・」「入るわよ」

 ミノルはベッドに寝転がり本を読んでいる。
「もう10時よ。ご飯早く食べて。
こんな暗い部屋に閉じこもって」
雅代がカーテンと窓を開ける。

2階まで伸びたザクロの木の赤い花が梅雨空に沈んだ庭に彩りを添えていた。
「あーあ、どこか遠くへ行きたいな。
近ごろどこにも行かないね。
ミノルも本ばかり読んでないでどこかへ出かけたら」
「・・・」
「ねえ、外国へ行ってみたいと思わない?」
「ふ・・・」ミノルは雅代を小馬鹿にしたように薄笑いを浮かべた。
「たとえば、ゴッホやセザンヌが愛した南フランスなんかどう?」
「・・・」雅代はミノルの無表情に少し焦った。
「ねえ。澄男伯父さんのこと覚えてない?」

「外国の山で死んだ?」
 ミノルは雅代が結婚する前の家族の写真を見たとき、死んだ伯父の話を聞いたことがあった。
「敏幸伯父さんじゃなくて、おじいちゃんのお葬式で喪主をした澄男伯父さんのほう」
 
 雅代の上の兄の敏幸は20年前の夏、モンブラン登頂のあと下山の途中に遭難死した。
28歳だった。
未だに遺体が見つかっていない。

「その澄男兄さんが一度マルセイユに遊びにこないかって」
そう言ってマルセイユからの絵ハガキを見せた。
「マルセイユってどこだよ」ミノルは絵ハガキを手に取りながら、興味なさそうに言った。
「知らないの? 南フランスの地中海に面した港町よ」
「うーん、観光客がたくさん来るところだろ? 別に行きたくないね」
「マルセイユの近くにいろんな国の若者が集まる学校があるんだって。
そこに体験入学してみないかって。日本の高校と違って大学受験を目的にした学校じゃなくて、
自分で学習テーマを決めるんだって。母さんはミノルには合ってると思うけどな」
「おれ、英語もフランス語も話せないよ」
「大丈夫なんだって」
「日本人の先生がいるわけ?」
「それは知らないわ。でも言葉なんて関係ないのよ。
他の人に伝えたいもの、例えば愛、それを持っているかどうかなんじゃない?」
「ふっ、ぼくにはそんなもの無いよ。へェへェへェ」
ミノルは母がいい年をして愛なんて言ったものだから、少し呆れたように笑いだした。
「何で笑うの。あんた好きな女の子いないの?」
「そんなもんいねえよ」「恋ぐらいする年頃なのに」「うるせー」

 雅代は話が変なほうにずれてミノルを怒らせたことを後悔した。
「少し考えてみてちょうだい。それとは別に母さんといっしょに一度フランスへ行ってみない? 
お兄ちゃんが好きだったモンブランとか。
母さん、お兄ちゃんが死んだって未だに信じられないのよ。
モンブランへ行ってないからなんだね。
でももう20年かあ。
お母さんもそのショックで体壊して1年後に孫の顔も見ないで死んじゃうし。
澄ちゃんも敏ちゃんを探しにフランスに行っちゃうし」
雅代は少し言葉を詰まらせた。
「お兄ちゃんの遭難した山の近くまで行って、霊を慰めてあげたいわ」

 ミノルは母が死んだ兄さんの眠っている山の近くまで行ってあげたいと言って
少し涙声になったとき、今までの母とは違う1人の人間を見る思いがした。
そしてその学校のことは別にしてとにかくモンブランまで母と
いっしょに行ってあげようという気持ちになった。
「伯父さんが好きだったモンブランへぼくも付いて行ってあげるよ」
「ありがとう、ミノル。敏幸兄さんもきっとよろこんでくれるわ」

 雅代はミノルの前でナイーヴな気持ちになってしまったことを少し恥じ、
またいつもの母の立場に戻ろうとした。
「早くご飯食べちゃって。汚いなあ、この部屋。少し掃除したら」雲間から日が一瞬だけ差し込み、
庭の木々の緑葉を輝かせた。
ザクロの枝をやさしく揺らす風と鳥のさえずりは雅代を遠い過去へと誘い、
ひさしぶりに好きなショパンをゆっくり聴こうという気にさせた。
「別れの曲、黒鍵、革命。20歳のとき祖国に別れを告げフランスへ。
ノクターン、マズルカ、プレリュード。ああいいなあー。
ショパンとサンドが過ごしたノアンの館。今もまだあるのかなあ・・」
 雅代のこころはもうフランスに飛んでしまっていた。

第三章  プロヴァンスの風
ミノルは応接間に入ったとき、心地よい香りを運ぶ風に誘われてふと足をとめた。
開け放たれた窓からは初夏の風が吹き込んでいた。
ソファーにすわると本棚の美術全集が目に留まり、その中からゴッホ・ゴーギャン作品集を取り出した。
 自分の部屋にカレンダーから切り抜いた太陽を描いたゴッホの絵を飾っているのは、
ミノルのこころに何か燃えるようなものが秘められているからだろう。

「ゴッホの絵?」
 ミノルが見入っている姿を見た雅代は思わず話しかけた。それには訳があった。

 雅代の祖父は地方の地主の長男として生まれ、東京に出て美術学校の西洋画科に進み、
卒業後は中学の美術の教師になったが、38歳のとき、家族の反対を押し切って教師をやめ
単身フランスに留学した。パリに3年間滞在し、友人と南仏旅行もした。
ゴッホやセザンヌの絵がとりわけ好きで、画風も似ていたのである。

「この絵は橋を通る馬車や洗濯する人が描かれているとこがいいね」
「その跳ね橋、アルルに今でもあるそうよ。このカフェテラスも。
アルルはマルセイユに近いから行ってみたいね」
「あの絵は母さんのおじいさんが描いたんだろ?」
 応接間には花瓶に生けた花の絵が掛けてあった。
雅代の祖父がフランスから帰国後に描いたもので、戦災でほとんどが焼失してしまった中で、
焼失を免れた数少ない作品の一つであった。
「そう、フランスにいる兄さんから譲ってもらったの」

「後期印象派からフォービズムの過渡期の作品だね」
「あら、評論家みたい」
 雅代は少し驚いてみせた。
「かまちの霊がおれに乗り移ったかな」
 ミノルは少し得意そうにいった。かまちとは群馬県高崎市に生まれ、
幼児期から絵に才能を発揮したが17歳のときエレキギターで感電死した山田かまちのことである。
もうすぐ17歳になるミノルはかまちの世界に魅せられていた。
「話は変わるんだけど、おじさんは日本に戻る気がないの?」
「おじいちゃんが亡くなったとき、ちょうどお見合いの話があって、
日本に戻ってきたらって話したんだけど、戻っても仕事がないからって」
「仕事は何なの?」
「数学者なの」雅代はそういってから少し可笑しくなった。
大学の先生?」
「そういう偉いのと違うんだよ。
今はやりのフリーターなんだから」
「それで数学を研究してるの?」
「みたいね」
「すげー。尊敬しちゃうな、そういう人」
「すごくなんかないのよ、ちっとも」
「フリーターかあ。数学は頭が自由でないとね」
「数学やってて頭が少し変になっちゃったのよ。
学生のころ兄さんに、付き合っている
人のことを話したら
数学で恋愛論を長々と話しだしてね。
カタストロフィとかいってね」

「カタストロフィ?」
「破局って意味。縁起でもないよね」
「で、そのときの恋愛はうまくいかなかったわけ?」
「そうね」
「それで、父さんと結婚したんだ」
「父さんと出会ったのは社会人になってからよ」
 雅代は学生時代の打算のない純粋でひたむきだった恋の思い出に少し胸が熱くなった。
「じゃ、父さんとはこれからどうなるんだろう。またお兄さんに分析してもらったら」
ミノルは雅代をからかうようにいった。
「ミノルこそ、おじさんに恋愛指南をしてもらえば」
「おじさんも恋をするのかな?」
「フランスに恋人がいるみたいよ」
「ほんとに?」
「はっきりとは言わないけど」
「数学者の恋か。でも、数学者なんて恋愛とは無関係な冷たい人種だと思ってたけどね」
「そうでもないわよ。ガロアの話、知ってる?」
「何それ」
「恋敵とピストルを使った決闘をして死んだフランスの数学者。
翌朝の決闘を前に徹夜で論文を書いたんだって」
「うそだろ」
「ほんとの話よ。その論文の余白に、『時間がない!時間がない!』って走り書きしてあるんだって。
それを友人に託して20歳の若さで死んじゃったの」
「いつ頃の人?」
「ショパンと同世代よ。ナポレオンの少し後ね」
「しかしその数学者も馬鹿だよな」
「そういう時代だったのよ。革命のあとの混乱した時代だからね。
誰からも認められず死んでいってかわいそうだったよね」
出窓に鉢植えのラベンダーがあった。
雅代が南仏プロヴァンスの風を部屋に呼び込もうと昨日買ってきたのである。
ミノルの足をとめた心地よい香りはこれであった。
(ガロアの生きた混乱したパリにはこの爽やかな風は届かなかったのだろうか?)
雅代はまるで恋人を失ったような感傷にひたってしまった。

「それにしても母さんの兄弟はみんな変わってるよ。悪い意味じゃないよ」
「ミノルだって変わってるじゃない。学校にも行かないで」
「秀才のおじさんと落ちこぼれのオレとは全然違うよ」
「秀才タイプじゃないわね。あの絵を描いたおじいちゃんの影響かな。
母さんが幼稚園のとき亡くなったんだけど、
お兄ちゃん達はよく遊びに行って絵を教わったりしてたから」
「秀才タイプじゃないということは天才タイプ?」
「そうね。ある分野でだれかと競争して優れているというのじなくて、
自分がやりたいことを追求するタイプね。
子供の頃の夢をいつまでも大事にしてる人ってことかな。
今の日本の教育システムではそういうタイプはなかなか難しいね」
「よーし、おれもフランスに行って天才になるか」
ミノルは冗談半分に言った。
「何の天才になるの?」
「それはこれからのお楽しみ」

出発日は7月13日ということになった。
午前11時35分に成田を発ち、途中フランクフルトを経由して
夜の19時15分にジュネーヴに到着する。時差が7時間だから15時間近い空の旅である。
雅代の祖父の頃は当然船旅で、神戸から、門司、上海、香港、シンガポール、コロンボ、
そしてスエズ運河を経てマルセイユまで約40日かかった。

 出発まであと2週間。ミノルは急に数学に親しみを感じ始めていた。

第四章  グラウンド

ミノルは7月最初の土曜日の午後、数ヶ月ぶりに外出した。
近所の人目を避けるようにして自転車で市民公園にある図書館に向かった。
数学入門書を借りるためである。
 図書館は期末試験の勉強に来ている中学高校生などで混んでいた。
数学書は2階にある。階段をうつむき加減で上っていき、踊り場まで来たときだ。

「よお、森田」
 中学で同じクラスだった三浦卓である。
勉強はあまりできないがスポーツの得意な明るい性格の人気者だ。
「おお、ひさしぶり」
 ミノルは驚いたようにあいさつした。
「こんなとこで何しちょる?」
「本借りに。お前は?」
「涼んどるだけじゃ。ちょっと外行かんか」

 二人は図書館の外に出た。ニイニイゼミが鳴き、もう夏真っ盛りだ。
近くの松林にあるベンチに腰掛けた。
「もう受験勉強?」
「んなわけないだろー」
「進学校は毎日勉強で大変じゃろが」
「オレは落ちこぼれだよ。三浦は?」
「来週から期末試験だけど、ぜんぜんヤル気ねえよ」
「なにか部活やってんの?」
「演劇部よ。けっこう楽しいぜ。女子部員も多いし」
「演劇部? そんな趣味あったの?」
「いや、かわいい子に入部誘われてよ。それでよ」
「三浦は女に弱いからな」
「今『竜馬と慎太郎になった高校生』という創作劇を練習中で、オレが竜馬役でよ。
9月の文化祭でやるきぃ見にこいぜよ」
「どういうストーリー?」
「それは文化祭でのお楽しみじゃが、ま、こっそりおまんだけに教えよう。
修学旅行で京都・東山の二人の墓を訪れた高校生一行の中の二人が突然
雷に打たれたように倒れこんだ。
しばらくして何事も無かったように立ち上がった。
しかし、二人の言動がおかしい。竜馬と中岡慎太郎の霊が乗り移っていたんだな。
そして修学旅行は大混乱。
竜馬とおりょうのラブロマンスもあるでよ。
二人の霊を鎮めるために再び墓にいき、高校生一行は浮かれた自分たちの日常を反省する。
すると二人にとりついていた霊が墓に戻っていくというお話しさ」
「面白そうじゃない。文化祭見に行くよ」
「ぜひ見に来いぜよ。ところでおまん、おなごのほうはどうじゃ?」
 卓は薄笑いを浮かべミノルの顔をまじまじと見た。
「何だよ、その笑いは」
「男子校の進学校だからそんな機会ないか。恋人募集中だったらいい子紹介してやるぜ」
「おれ、劇やるようなませた女の子は苦手だよ」
「ロリコンなのかおまん」
「そうじゃないけど。オレみたいな男は相手にしないだろう」
「そんなことないぜよ。まじめな子ばかりよ。おまんの高校、うちの部の子に人気あるぜよ。
こないだも文化祭見に行こおって話してたぜ。おまん、部活何やっちょる?」
「美術部だけどほとんど顔出してないよ」
「男子だけの美術部かあ、やっぱ暗いぜよ」
「そういうお前は彼女いるの?」
「図書館でお勉強中よ。おりょうちゃんに会わせてやろうか。美人ぜよ」
「人の彼女に会ってどうするの。自慢したいのか?」
「そうじゃねえよ。おまんもひがみっぽいんだにゃー。
あ、そう、西野。アイツは元気?」
「さー。クラス違うから」
「なあ、夏休みに旧3年2組でキャンプに行かんか? 
斉藤や持田も誘うて」

 斉藤や持田とはクラスの男子みんなが憧れた女子だ。
「いいなあ。考えておくよ。でもお前、おりょうちゃんとかいう子をほっといていいのか」
「いいんだよ。あいつの親はうるせーから。おまん携帯持っちょるか?」
「持ってないよ」
「じゃ、ワシの携帯教えておくぜよ」
 卓は携帯を軽快に操ってみせた。ミノルは時代の流行に自分が取り残されているように感じた。
ポケットから手帳を取り出すと卓の携帯の番号をメモした。

「おりょうちゃん待ってるよ」
「そうだな。じゃ、夏休みになったら連絡しちょくれ」
「わかった」
 二人は図書館に向かった。

「7月からこんな暑さじゃイヤんなるな。キャンプはどこへいく?」
「森田も気が早いな。群馬のほうはどうじゃろ。
去年合宿した近くにいいキャンプ場があったぜよ」
「ま、まかせるよ。でも斉藤と持田、来るかな」
「人数増やせば来るんじゃねえのか。3年2組の連中に声掛けてみるきぃ。
西野に会ったら誘うちょくれ」
「お前から連絡しろよ」
「そうか、わかった」
「あ、そうだ。行くとしたら8月にしてよ。7月ちょっと
家族で旅行に行くから」
「それじゃ8月3日ぐらいか」
「だったらOKだよ」
「じゃ勉強がんばれな」
 そういって卓はトイレに向かった。

 ミノルは2階に行くと数学書を探した。
吉田武の『虚数の情緒』という千頁ものぶ厚い本を手にとった。
「中学生からの全方位独学法」とあったので、自分でも読めそうだし、
不登校の自分に手を差し伸べてくれそうな気がして借りることにした。

 卓に会ったことで気持ちが解放されたミノルは川縁の遊歩道に沿って
少し遠回りして帰る気になった。
卓の明るい性格がミノルの内向的な心を外向きにしたのである。

しばらく行くと高校のグラウンドが見えた。木陰にベンチがあったので、少し休むことにした。
近くで小学生が釣りをしている。サイクリングやジョギングする人がときおり通った。
 テニスコートでは十人ほどの女子高生が練習している。
その様子を眺めながら借りた本の頁をめくった。
(それにしても『虚数の情緒』とは変な題名だな。虚数って何だろう)
 女子高生の黄色い歓声がテニスコートから聞こえた。
(こんな本にのめり込んだら青春列車に乗り遅れるなあ。
オレにも恋人がいて楽しい夏が過ごせたらなあ。
しかし、この本はどこに虚数が出てくるのだろう)
 グラウンドは炎天に白く輝いている。
野球部員は声をからして厳しい練習に汗を流していた。

 
(みんな太陽の下、青春のエネルギーを燃やしているんだな。
いったいオレは何を目指せばいいんだろう。
美術?数学? どうも違うなあ。
この『虚数の情緒』という本、そして卓との偶然の出会いがオレにとって転機になるかもしれないな)

 夏草の匂いがほのかにした。
高校グラウンドを眺めながらミノルは再び高校に戻れたらという思いと、受験勉強に追われる毎日への絶望と反発の気持ちが交差した。



写真提供:竹太郎氏
第五章  モンブラン
出発の3日前、澄男兄から雅代に手紙が届いた。

 拝啓。雅代とミノル君にもうじき会えるのを心待ちにしています。
 ジュネーヴ到着後のことですが、空港の1階到着フロアから200mほどで国鉄駅がありますから、
ジュネーヴ(コルナヴァン)行きに乗ってください。
6分でジュネーヴ駅に着きます。駅のすぐ隣にコルナヴァンホテルがあります。
その夜は時差もあって疲れているでしょうから、そのホテルでゆっくり休息してください。
 翌日午前中は、ジュネーヴの町をぶらり散策してはいかがですか? 
午後1時にイギリス公園内にある花時計(Horloge Fleurie)で会いましょう。
そのあといっしょにレストランで昼食をとり、シャモニーに向かいます。そこからモンブランはすぐ近くです。
シャモニーで1泊したら、ゴルド村にある私のペンションへ直行します。ここにしばらく滞在してもらいます。
ここからなら大抵の南仏の観光地に日帰りで行くことができます。
このペンションは私が5年前に知人から安く譲り受けたもので、老朽化していた建物の改修もほぼ終わり、
宿泊客も徐々にですが増えてきました。
 ゴルド(Gordes)はマルセイユから北へクルマで2時間くらいの所にある小さな村ですが、
小高い山の頂に城があり、それを取り囲むように古風な家が建ち並んでいる優美な姿は、
あたかも天空の城のようで、ペンションからはその絶景を眺めることができます。
また近くにはセナンク修道院があり、ラベンダー畑に囲まれたロマネスク様式の建物が
多くの人を魅了しています。

 さて、ここで重大なことを話さなくてはなりません。
実は二人に会えるのを楽しみにしている人間がもう一人いることです。
20年前モンブランで死んだことになっている敏幸兄さんです。
 20年もの長い間、兄さんの生存を伏せていたことを心から謝ります。
といっても許してもらえないでしょう。
お母さんは兄さんが山で遭難死したと私から聞いたあと体調を崩しました。
そしてそれが原因で亡くなったことを知り、兄さんと私はひどく後悔しました。
なぜこうまで兄さんは自分をこの世から抹殺してしまいたかったのか、
そのわけを説明しなければなりませんね。

 兄さんが失踪する直前、兄さんが知人と作った会社が倒産しましたよね。
兄さんは社員とその家族に多大な迷惑を掛けてしまったこと、
父や知人の数億円の出資金を紙くず同然にしてしまったことに、
その会社の技術責任者として強い自責の念に苛まされ、思いつめたあまり、
自らの死をもって償おうと決意しました。
 憧れのモンブランを安眠の地と定め、登頂した後にクレバスに転落死しようと思っていたそうです。
モンブランは兄さんがマルセイユ大学に留学していたとき友人と登った思い出の山だそうです。
しかし死に切れずに山を降りてきました。

 その後私に手紙を送ってきました。
手紙には、もう二度と日本には帰らないこと、もうこの世には何の望みも持っていないこと、
自分が多くの人に大迷惑をかけたことは死に値すると思っていること、
自分はモンブランで死んだことにしてほしいなどと書かれてありました。
 私はシャモニーで兄さんに会い、日本に帰るように説得しましたが、
兄さんの決意は変わりませんでした。
死に切れなかった自分の弱さを恥じ絶望の淵に沈んでいる兄さんを慰めてあげることで精一杯でした。
 それから兄さんはヴァントゥ山にこもって乞食同然の生活を始めたのですが、私は見かねて、
週末に食料や生活用品を兄さんに届けるようになりました。
 そんな生活が15年近く続きました。
しかし、ペンションを手に入れたのを機に兄さんの生活に転機が訪れました。
兄さんがその修復をやってくれることになったからです。
さらに畑仕事、調理や雑用にも携わるようになりました。
今では兄さんがそのペンションに住み込んで宿泊客相手に仕事をしているのですよ。
先日、雅代とミノル君のことを兄さんに話したところ二人に是非会いたいと言い出したのです。
人生の敗北者で親不孝だった自分には人に教えることは何もないのだ
けれど、ミノル君には自分の人生を他山の石にして成長してもらいたいと言っていました。
 兄さんは20年前までは、PROLOGというコンピュータ言語の第一人者だったんです。
でも、それをパソコンで普及させようと少し勇み足になって大やけどをしたんですね。
当時は第五世代コンピュータ開発というのが国家プロジェクトになり、
PROLOGがその開発言語に選ばれたりしましたから、兄さんも判断を誤ってしまった、
時期尚早だったということなんですね。
 ともかく、兄さんはミノル君が人生の岐路に立っていて悩んでいることを知って、
何かを伝えたいと思っているようです。
 ミノル君に以上のいきさつを話しておいてください。
そして兄さんから何かを受け継いでもらえば、兄さんのこれまでの苦労も少しは報われるというものです。
 13日のジュネーヴの天候は良好のようです。
長い飛行機の旅は疲れると思いますが、シベリアのツンドラ大地を眺め、
ユーラシア大陸の広大さを実感するだけでも有意義な旅になるかと思います。
それでは、気をつけていらしてください。
                    澄男拝

第六章  彼岸

 手紙は雅代をひどく困惑させた。
なぜか、兄が生きていてくれてよかったという安堵感はなく、
この20年、2人の兄に真実を隠されていたことに対する憤りのほうが大きかった。
ミノルを連れてマルセイユへ行くことを止めたいと思い、夫の雄一に相談した。

「20年たてば時効だよ。でも、やっぱりな」
「やっぱりってどういうこと?」
「会社が倒産したくらいで死ぬか? 何もかもイヤになって逃げだしたんじゃない?」
「初めから死ぬ気なんかなかったっていうの?」
「そりゃわからんけど、自殺も遁世も現実からの逃避に
変わりないよ。ミノルと同じさ。きっといい相談相手になってくれるよ」
「ほんとにそれでいいの? かえってミノルはおかしくならない?」
「おれなんかが説教するよりはましだろう。ミノルはおれのこと頭から毛嫌いしてるんだから」
「あなた、それでも親? もっと真剣にミノルのこと考えてよ。
仕事が忙しすぎてミノルとのコミュニケーションが足りないのよ。毛嫌いしてるわけじゃないわ」
「親って立場でミノルに接するから駄目なんだよ。おれ自身が変わらなきゃ。
それにこのままじゃおれの方が潰れちゃうよ、ストレスで」
「無理しないで」
「会社しばらく休むことに決めたよ」
「え?」
「こないだ、2年前癌で死んだ高校時代の友人の夢を見てね。
そいつが川の中に立ってこっちを向いて笑ってるんだよ。
『どうして生きてるんだよ』と思いながらそいつに声掛けると、『早くお前もこいよ』って言うんだよな。
人懐っこい笑顔でさ。つい、そいつの方へ近づこうとして川に入ろうとしたら目を覚ましたよ」
「それ、三途の川じゃない」
「そう。その川渡ってたらおれ死んでたんだな」
「やーだ。気をつけてよ」
「そんなこともあって、会社の出世はもう結構、自分の残りの人生大事にしようって思ったのさ。
お前たちがフランス行くのにあわせて8月いっぱい休暇もらうことにしたんだよ」
「あら、もう決めちゃったの?」
「ああ」
「よく会社が許可してくれたね」
「休暇明けにはお前の机はないよって言われたけどね」
「それでもいいの?」
「覚悟してるよ。クビにでも出向でもどうにでもしてくれって気持ちさ」
「1ヶ月半も会社休んで何するの?」
「若い頃からの夢なんだけど、日本全国津々浦々、鉄道で旅しようと思ってるよ。
だからお前もミノルも夏休みいっぱいフランスに行っててもいいよ。
帰ったらおれに合流してもいいしな」
「男の人って勝手ね。あなたも兄さんもミノルもみんな自分勝手だよ」
「何言ってんだよ。お前とミノルがマルセイユに行っておれは一人残されるんだよ」
「わたしは1週間ぐらいと思ってたわ。あなたのことが心配だから。
でもあなたが旅に出るんだったら、私も好き勝手にするわ」

 こんな具合にこの夫婦の会話はいつも喧嘩になってしまう。
結局、雅代は雄一が親身になって相談に乗ってくれるどころか、
自分一人で勝手に1ヶ月半の長期休暇を決め旅行の計画をすすめていたことに
二重のショックを受けるだけに終わった。

7月13日、予定どおりミノルと雅代はフランスに、雄一は全国鉄道一人旅に出発することになった。

               
第七章  キャンパス
ミノルの姉の淳子は6月に19歳になった。京都にある私立大学の史学科に在籍している。
高校のころは大学生活に胸を膨らませていたのに講義に身が入らない。
大教室の後ろでただ何となく受講している。他の学生もまじめに聴いている学生は少ないようだ。
講師も熱心という感じはしない。これがマスプロ教育というやつなのか。
担任教師がいて同じクラスの生徒が同じ教室で学んでいた高校の授業を懐かしく思い出した。
特に日本史の坂田先生の影響を受けた。
最澄と空海、源義経、真田幸村、土方歳三、江藤新平といった時代の変革期の脇役に
スポットを当てて歴史を興味深く教えてくれた。
立身した権力者ではなく、権力に敗れ去った人物や自己の信念や情熱に生きた人物が
好きになった。
そうした人物の生き方を通して人生を学ぶこともできた。
ところが、大学の講義は学問としての歴史の講義である。
講義に馴染めずに苦痛さえ感じている淳子は自分がほんとうに歴史を専攻するのに
ふさわしいのかと悩んでいた。
そんなある日、同じ専攻の友人に誘われて歴史研究サークルの部室を訪ねた。
2、3回生が中心になりイラク戦争についての勉強会が開かれていた。
欧米から来た近代化の波がアジアにどう影響したか、
特にアジア史の視点でイラク戦争をどう捉えるかということが中心テーマであった。
淳子はイラク戦争について、ましてやベトナム戦争とかについてほとんど知識がなかったので
最初は戸惑ったが、何回か参加しているうちに、イラク戦争が他人ごとではなく、
自分の生き方に関わる問題だと考えるようになった。
 淳子が月曜日に帰省して、久しぶりに家族で外食をすることになった。
淳子はそこで家族にイラク戦争について尋ねてみることにした。
「今、大学のサークルでイラク戦争について勉強しているんよ。
サークルの皆がイラク戦争と自衛隊派遣に反対なんだけど、
お父さんはイラク戦争についてどう思う?
やっぱり反対? 
日本は自衛隊の派遣をやめるべきだと思わない?」
「安保条約で日本の安全が守られているのだから、アメリカに頼まれてイラクへ自衛隊派遣するのは
仕方ないことじゃないのかな」
「じゃ、ブッシュのイラク戦争に賛成なの?」
「賛成とは言わないまでも反対でもないな。テロと戦っているんだから」
「へー、そうなんだあ」
淳子は驚いたように言った。
「ねえ、お母さんはどう?」
「戦争には反対だわ」
「じゃあ、自衛隊派遣にも反対?」
「うーん、それは難しいわ。お父さんの言うとおりかも知れないし。
そういう難しい問題は政治家に任せておけばいいんじゃない。
政治家は高いお給料貰ってるんだから。
淳子はもっと大学で勉強して、まずは一人前の社会人になることが大事だと思うわ」
「その言い方っておかしくない? 選挙で政治家選んだらあとはお任せでいいの? 
一人前の社会人になるためにもっとイラク戦争を真剣に考えないといけないと思うけどな」
「いいこと言うな。でも、口だけではね。
まずは自立していける人間になることが先決だと父さんも思うな。
手に職をつけるとか」
「そうね。それに淳子は選挙権もないしね」
 雅代がちょっと余計なことを言ってしまった。
「それじゃおれたち未成年は何も発言するなって言ってるのと同じじゃねえのか? おかしいよな」
ミノルは姉に向かって言った。
おかしいよ。差別だね。選挙権がないからって大人の話に口出すなって考えは」
「差別だなんて。そんなつもりで言ったんじゃないのになあ」
「いや、政治を議論するにはちゃんとした資格がいるさ。一定の年齢を基準にするのは間違ってないよ」 
雄一は雅代を弁護した。
「でも、大人はわれわれ未成年者の考えにもっと耳を傾けるべきじゃないの?
大人の論理だけに頼らないで。ねえ、ミノルはどうなの」
「おれは不登校の落ちこぼれだから、議論の参加資格はないらしいね」
「そんなことないったら。ミノルはこれから先どうするつもりなの?」
「それがわかりゃ苦労はないさ」
「ねえ、笑ってないで真剣に考えなよ」
「おれは、その、あの・・・今は実数じゃなくて虚数の、そう、虚数の情緒について考えているんだよ」
「はあ? 何訳わかんないこと言ってんの」
「つまり、あの、世の中の価値観ってえのは実数の世界でのことで、
本当の真実は虚数の世界にあるんじゃないかってことだよ」
「よくわかんないな、もっと説明してよ」
「おれも、よくわかんないけど、フランスのおじさんはもしかして、
その実数の世界からはみ出した世界で生きているんじゃないのかな。
だから、おじさんに会えればその辺のことがはっきり分かるかも知れないよ」
「へえー、すると、イラク戦争は実数の世界の出来事ってこと?」
「もちろんさ。アメリカは実数の世界の王様だと自分で思っているからね。
実数の世界では力がものをいうから。それに虚数の価値観はわからないんだよ」
「そのとおりだな。生活はまさしく実数の世界だ。買い物して良くて安いものを求めるのは人情だよ。
学校だってそうだ。成績悪けりゃ好きな学校へ入れない。それが現実だ。
父さんにはミノルのいう虚数ってのが単なる理想論、現実逃避に聞こえるけどな。
社会人になれば世の中理想論じゃ動かんということがわかるよ」
「理想がなくなったら人間おしまいじゃないの? 生きてる意味ないよ。
父さんだって若いころは理想があったでしょう? ベトナム戦争についてどう思ってた?」
「ずいぶんと昔の話だね。そうだな、そりゃ当時は父さんも若かったから戦争には反対だったかな」
「そうでしょう」
「そのことはゆっくり旅の途中でも話そうよ。な、明日は母さんとミノルがフランスに行くんだし」
雄一は話題を変えようと思った。
雄一と淳子は昨日電話で東海道の旅に出かける約束をしていたのである。
「ミノル、向こうの学校ってどんな学校なの?」
「おれにも分からないよ。第一その学校に入るかどうかも決めてないし」
「世界中から学生が集まってるそうよ。ミノルには合ってるかもしれないね。
一度体験入学をしてみて、気に入ったらしばらくフランスにいればいいのよ。
そしたら母さんもフランスで生活しちゃおうかな」
「おいおい、お前までバカなこと言うなよな」
「あなただって旅に出るんでしょ?」
「・・・」
「みんなで少し現実を離れてみては? イラク戦争のことも別の視点から考え直そうよ。
ミノルも世界の人の考えを知るいい機会だよ」
 淳子は何となく楽しくなってきて笑みを浮かべてそう言った。
「英語もフランス語も話せないのにどうやって」
「勉強すればいいじゃない」
「おれはお姉みたいに頭良くないしな」
「言葉なんて関係ないって。相手を理解しようって気持ちがあれば」
「母さんと同じようなこと言うんだな」

第八章  巡る世界
 時計は0時を回って7月13日、すなわち出発当日になった。
ミノルはなかなか寝つけなかった。
隣の姉の部屋からは音楽が聞こえてくる。
 夕食のときにミノルはとっさに虚数の話を口にしたけれど、
何だか知ったかぶりをしたようで自分が恥ずかしく思えてきた。
虚数の話が現実逃避だと父親に言われたときも何も反論できなかったのである。

 虚数単位iを2乗するとマイナス1になる

 虚数を考えると頭が変になりそうだ。同じ数を掛けあわせてマイナスになるなんてありだろうか?

 時計の長針は15分を少し回り短針と直角になった。
この置時計はミノルの死んだ祖父が10歳の誕生祝いにくれたものだった。
姉はあいかわらず音楽を聴いている。何の曲だろう。少し気になる。
心に訴える力を持った男性ボーカルだ。

 中学の頃を思い出した。数学の時間、担任の野口先生が懸命に、
マイナス1を掛けあわせると1になるという説明をしていたが、ミノルはうわのそらだった。
教室の窓の外のグラウンドは光に満ち、青葉が輝いていた。
あの日、窓側の席にいた斉藤ナオミの横顔は今でも鮮やかに覚えている。
萩原朔太郎の詩のように、ミノルはなまめく情熱に一人悩み、
教科書を投げ捨てて校庭の草に寝ころびたい気持ちだった。

 修学旅行の時に撮った写真のナオミを見ながら8月のキャンプのことを考えた。
フランス滞在は1週間ぐらいにして、夏休みに入ったらすぐにナオミに電話して
キャンプに誘ってみようと思った。

時計の長針は30分を回り短針とちょうど逆向きになった。
姉は同じ曲をリピートして聴いている。朝6時に起きないといけないというのに。
ミノルは姉の部屋のドアをノックした。
「うるさくて眠れないんだけど」
「あ、ごめん」
「あれ、泣いてるの?」
「うん、この曲泣けてくるんだもん」
「何の曲?」
「平井堅の『瞳をとじて』だよ」
「『大きな古時計』歌ってた?」
「そう」
「明日朝早いんだから、もう寝たら?」
「そうだね。じゃ、おやすみ」
「おやすみ」

 ミノルは長針と短針がいっしょになる頃ようやく眠りについた。
ナオミと手をつないで川縁の遊歩道を歩いている夢を見た。夕陽を背に受けて少年が釣りをしている。
ナオミ「何釣れるの?」
少年 「コイ」
ミノル「おー、いっぱい釣れたね」
少年 「フナばっかり。コイがまだなんだ」
ナオミ「一人で来たの」
少年 「友達は先に帰った」
ナオミ「もう6時よ。遅いからうちにお帰り」
少年 「わかった。もうろくじじいが心配してるからね」
 三人は大笑いした。すると向こうから三浦卓とその仲間が近づいてきた。
まずいと思ったミノルはナオミの手をひいて草むらに隠れ、ナオミの肩にそっと手をやった。
風がナオミの髪をなびかせミノルの顔を撫でた。卓たちが行ってしまうと少年は笑いながらウィンクした。
風そよぐ麦畑は夕陽を浴びて金色に輝いていた。二人は木陰のベンチに座った。
グラウンドでは野球部員がまだ練習をしている。
「私、この小川が大好き。ふるさとの小川にとっても似ていて」
ナオミは川面を眺めながら言った。
「君のふるさとって?」
「・・・フランスの片田舎なの」
 ナオミは少しためらったように答えた。
「フランス?」
「そう。ミノル君の曾おじいちゃんと私の父はいっしょにフランスに行ったことがあって、
私はそのとき生まれたんだって」
 ミノルの頭は混乱した。
「何だって? 曾おじいちゃんって絵描きだった?」
「そう。ミノル君のお母さんのおじいちゃん」
「でも、曾おじいちゃんは何十年も前に死んだんだよ。君は17才だろ。おかしいじゃないか」
「そうね。でも私って年を取らないの。ずーっと17才なの。信じてもらえないよね、そんなこと」
 ミノルは絶句した。
「私、そろそろ帰らなきゃ」
 ナオミは寂しそうにつぶやいた。
「わかるように説明してくれよ」
「あの公園に私の父が造ったブロンズ像があるわ」
 そう言うとナオミは公園に向かって歩き出した。
「おい、待ってよ」
 二人は像の前に立った。像は『アヴィニョンの少女 1956年』と題されていた。
「これ、君のお父さんが作ったの?」
「そう。ミノル君、お願いがあるんだけど」
「ん?」
「私をフランスに連れてって」
「え?」
「アヴィニョンに帰りたいの。もう50年もアヴィニョンに帰れる日を待ってたのよ」
「え? どういうこと」
 ミノルの頭はますます混乱した。
「明日の朝、ミノル君のお母さんをこの像の前に連れてきてほしいの」
「母さんを?」
「そう」
「それは構わないけど、どうして」
「お母さんについて、ミノル君といっしょにフランスに行きたいの。フランスに行っている間だけ。
日本に戻ったらまたこの像に帰るわ。いいでしょう?」
「母さんはどうなるんだよ」
「大丈夫。少しも心配いらないわ」
「だったらいいけど」
「ありがとう、ミノル君。明日の朝、ここへ来てね。この場所にお母さんといっしょにね。
ちょうどこの場所よ。絶対に、約束よ」
「ああ」
「じゃ、私そろそろここで」
「家まで送るよ」
「大丈夫。一人で帰れるから」
「いいよ、送るよ」
「言ったでしょう。ここが私の帰る処なの」
「ここって?」
「この像よ」
 ミノルがナオミを見ると、ナオミの体はいつの間にか透き通る水晶体のようになっていた。
「あ、君の体・・・」
「じゃ、明日の朝、お願いね。待ってるよ。絶対だよ」
 そう言うと、ナオミは消えるようにその像の中に吸い込まれていった。
 ミノルは目を覚ました。夢だったのか。しかし、ミノルはただの夢だったとはどうしても思えなかった。

第9章 天空の調べ
ミノルは寝苦しさのあまり窓を開けた。弓月が低い空を照らしている。
その清らかな月光がザクロの枝葉を淡く輝かせ、夜の空気に神秘の粉を撒き散らしていた。  
ミノルは月明かりに誘われるように、懐中電灯を持ってそっと家を抜け出した。
自転車に乗ると自然と公園に向かってペダルを漕いでいた。
 夢の中でブロンズ像があった場所に来ると、少女が寂しそうな面差しで立っている。
この少女が夢の中のナオミなのだろうか? ミノルはそっと少女の頬を撫でてみた。頬はひんやりと冷たい。
後ろに人の気配を感じ、ミノルは後ろを振り返った。気のせいか。
松の木の1本1本に宿った魂が語りかけてくるようで、像の前から去り難くなってしまった。
 この少女の魂はこの世にさ迷っているのだろうか?
自分の夢の中に現れたのは、救いを求めているからかも知れない、そうミノルは思うようになっていた。
「もう明るくなってきたから帰るね。じゃ、あとで」
そう少女に語りかけて、その場を去った。

「もう起きてたの?」
 雅代が玄関に入ったミノルに声を掛けた。
「ちょっと散歩に」
「もう準備できたン? 8時に出るのよ」
「あのさ、図書館の近くの公園に女の子の像があるの知ってる?」
「そんなのあったかなあ」
「行く前にちょっと立ち寄りたいんだけど」
「どうして?」
「その子、フランス生まれで、フランスに帰りたがっているんだよ」
「女の子の像が? だれがそんなことを?」
「その子自身がだよ」
「はー?」
「その子にフランスに連れていくって約束したんだよ」
「バカなこと言わないでよ。夢でも見たんじゃないの?
第一どうやって連れて行くのよ」
「その子が母さんに乗り移るんだよ」
「やーだ、気味悪い」
「頼むよ。約束したんだから」
「冗談言わないでよ、全く」
「お願いだよ。その子と約束しちゃったんだよ。もし約束破ったらオレ呪い殺されるよ」
「しょうがないわね、でも母さんがどうなっても知らないからね。どうすればいいの?」
「像の前に立つだけでいいんだよ」

 朝食を済ませ、父のクルマで駅まで送ってもらう途中、その公園の前でクルマを止め、
ミノルと雅代は少女像に向かった。

「ここだよ」
 公園は時折、散歩する人が通るだけで、朝からセミがうるさいくらい鳴いている。
 雅代は一言も口を利かない。二人の間に沈黙が流れた。
「母さん」
 ミノルが呼びかけても、まぶたを閉じて無言でいる。
「母さん、どうしたの」
「小さい頃、おじいちゃんとここに遊びに来たことを思い出したの」
「ほんとに?」
「さあ、おはいり」
 雅代はそう言うとそっと手を合わせた。
 雅代の体は小刻みに震えた。
「母さん、どうしたの?」
「・・・」
「大丈夫?」

 しばらくして雅代は正気に戻ったように、ミノルに向かって笑みを浮かべて言った。
「さあ、もう大丈夫よ。フランスに行きましょう」

第10章 イマジン
「ミノル君、ありがとう」
「は・・?」
「わたしよ」
「ナ・・ナオミ?」
「そうよ。うまくいったわ」
「母さんは?」
「大丈夫、私の中で眠ってるわ。でも、何だか変な気分。
早く、クルマに戻りましょう。図書館に寄るんでしょう?」
「あ、そうだ。忘れてた」

 ケヤキ並木の下で雄一と淳子が待っていた。その横を学校や勤めに向かう人々が歩いていく。
「こんな光景初めてだなあ。いつもだったら今頃は通勤電車の中か。
淳子、父さんが長期休暇取ったわけ知らないだろう」
「うん」
 淳子はミノルが図書館から借りた本を読みながら生返事をした。
「こないだ、高校のとき親しかったヤツの夢を見てね。
そいつ、2年前に癌で死んだはずなのに、浅瀬に立ってこっちを向いて笑ってるんだよ。
『お前生きてたんか』って声掛けると、人懐っこい笑顔で、『早くお前もこいや』って言うんさ。
つい、そいつの方へ近づこうとして川に入ろうとしたら目を覚ましたよ」
「それって、三途の川じゃないの?」
「そう。その川渡ってたら死んでたんだな」
「やーだ。気をつけてよ、父さん」
「そんなことがあって、会社よりか自分の残りの人生大事にしようって思ってな。
それで父さんの夢だった、日本列島ぶらり旅をすることにしたんだよ」
「そうなんだ。父さんもがんばったからね。少しゆっくりして、またがんばればいいじゃん」
「そうだな。父さんもがんばったしな」
雄一は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「まったく朝から暑いわね。あの二人何してるの? この本返すんでしょうに。
ミノル、こんなぶ厚い本、わかって読んでんのかな」
「どれ」 雄一はミノルの借りた本をめくった。
「ほほーう、すごいなこりゃ。学問への情熱が行間に溢れてるな。父さんも読んでみっかな」
「え、この本、持ち歩くの?」
「ちょっと重いか」
「重いよ。それにこれ数学書よ」
「でも、生活に追われて忘れてしまったことにもう一度眼を向けるにはちょうどいい。
それにミノルが何考えているのか気になるしな。
きのう実数がどうの虚数がどうのって言ってたのはこの本の影響だろう」
「あ、そうか、言ってたわね。なるほど」
「ミノルは現実と空想の世界の区別がはっきりしなくなっているんだな。
でも、もしかしたら、人間が死ぬってことは実数の世界の束縛から解放されて、
虚数の世界に羽ばたくってことかもしれんな。数学はあらゆる制約から解放された世界にあるだもんな」
「あら、父さん、ミノルの理解者になったようね。あ、噂をすれば何とやら、やっと戻ってきたよ」

「何してたの? 遅れるよ」
「淳子さんね、はじめまして。さあ、急ぎましょう」
「はあ?」
「母さん暑さで少しぼけたみたい。ちょっと図書館寄ってくれる?」
「この本でしょう? 私が後で返しておくよ。それより母さん、大丈夫?」
「大丈夫よ。変なこと言ってごめんね」
「ならいいけど。この本、父さんも読んでみたいって」
「え? その本を?」
「あっ、うん、なかなか面白そうじゃないか」
「じゃ、帰国したら感想聞くからね」
「おぉぉ、こりゃ困った」
 クルマの中ではジョン・レノンの音楽が流れていた。雄一はいつになく明るかった。

第11章 旅に出よう
「携帯の使い方、きのうの説明でわかった?」
 雅代は旅行代理店から借りてきた旅行者専用携帯電話をみんなに1台ずつ手渡していた。
「道がわかんなくなったときは確かに便利ね。位置ボタン押してから自分のボタン押すんでしょう? 
ほら、現在位置が地図にでてくるわ。他の人のボタン押せば、その人の居場所もわかるしね」
「ひえー、それじゃ、行動を逐一監視されてるわけか」
 クルマを運転しながら雄一は悲鳴をあげた。
「電話するときは電話ボタン押してから相手のボタンを押す。姉さんのは黄色だから、
この黄色ボタンだね」ルルルーン。淳子の携帯が鳴った。
「なるほど、こりゃ便利だ」
「外国からもつながるんだろう?」
「当然」
「便利だけど、おれは監視されてるようでイヤだな」
「ねえ、このカレンダー面白いよ。『マルセイユ』で検索したら1862年が出てきた。セットしてみるよ」
「あれ、僕のも1862年になったよ」
「4台が連動してるのよ」
「じゃ、1862年にしてみましょうよ。日本は幕末ね。フランスはどうなのかしら。スリルあるわね」
「でも、ほら、地図が変わっちゃった」
「あ、国道17号が中仙道に変わっちゃったよ」
 あまりにうまく出来過ぎていて淳子は思わずふき出してしまった。
クルマは駅前のロータリーに着いた。
「どうする、あと15分ほどあるけど」
「ここで、いいわ。じゃ、成田に着いたら電話するから」
「ああ。忘れ物ないな? パスポート持ったね」
「大丈夫」
「じゃ、気をつけてな」
「ミノル、学校がんばるんだよ」
「だから、入るかどうかわかんないって言ったろ」
「いいチャンスなのよ。日本だけにいたんじゃわかんないことたくさん発見できるよ」
「じゃ、母さんを頼むな」
「うん、じゃあね」

 4人の2組に分かれての旅がようやく始まった。
「さてと、どこへ行くかな? 1862年ってどんな時代だい?」
「血生臭い時代ね。天誅とか、尊皇攘夷とかいって京では殺人事件が日常茶飯事だったし」
「へー、そんな時代にタイムスリップするのか」
「でも、近代を検証するにはちょうどいいかもしれない。
わたし今大学の歴史研究サークルで、近代とアジアをテーマに勉強してるんだけど、
アジアでいち早く近代化を成し遂げた日本について考えるのが早道だって最近気がついた。
だからこの時代にとても興味をひかれるの」
「ほーう。さすが大学生だね」
 雄一はわざと大げさに言った。
「茶化さないで。イラク戦争のこと考えているんだからね。
父さん、きのう、ベトナム戦争についてどう思うって私の質問、答えてないわよ」
「はいはい、父さんも若い頃は、ジョン・レノンと同じ気持ちでした」
「え?」
「つまり、国境も戦争もない、飢えや所有もない、
そんな世界に、みんなが平和になぜ暮らせないのかってね」
「そうよ。そのとおりよ。じゃ、そういう世界を探しに今から旅に出ようよ」
「よし、テントとシュラフの入ったザックをしょい旅に出るか」


参考:イマジンの音楽が聴けます(copyleft)-竹太郎
http://www.platon.co.jp/~nowhere/flash/john.html

第12章 ボーズとフェルミ

 8時ちょうど東京発の成田エクスプレスに乗り込むとようやく二人は落ち着くことができた。
「ミノル君、ほんとうに感謝してるよ」
 そう囁くように言って、ナオミはミノルの手をそっと握った。
 ミノルは照れ笑いしながらナオミの顔を見るや、すっと手を引っ込めた。
「どうして?」
「ほんとうにナオミなの?」
「そうよ」
「でも変な感じでイヤだな」
「そうよね。私もとても変な感じだわ。永いこと水の中にいて、水の外の世界に憧れて、
今ようやくこうして空気の中を自由に泳いでいるんだから」
「水の中にいたの? 人魚姫みたいだね」
「もちろん例えよ。でも、人間だって5億年かけて魚から進化してきたんだもの。
わたしはたったの50年。でも、ずっとこの時を待ってたのよ」
「そんなこと夢でも言ってたね」
「夢じゃないわ。ミノル君がエーテルの世界に入ってきたんじゃない」
「エーテルの世界?」
「そう、私たちが住む世界」
「どこにあるの?」
「どこにでもあるのよ。ここにもあそこにも。人間の五感ではわからないだけ。
でも脳やコンピュータがもっと進化すれば、その世界につながっていくわ。
現にミノル君の脳はつながったじゃない」
「じゃオレの脳は人より進化しているのか」
「そうだね」
「ねえ、そのエーテルとかいう世界、もしかして虚数の世界なのかな?」
「うん。正確に言えば複素数の世界。
波動、つまり波の現象を記述するときに活躍する数なのよ。
ミノル君が虚数についていろいろ考えていたから、エーテルの世界に迷い込めたのよ」
「なるほど。エーテルの世界は波なのか。人間は死んだらその世界に行くのかな?」
「人間だけじゃなくてすべての生命が戻る場所よ」
「でも、それじゃ、そのエーテルの世界は死者で満員になっちゃうんじゃないの?」
「その心配はないわ。エーテルの世界は波の世界だからいくらでも詰め込めるのよ」
「え、言ってる意味がわからない」
「電波もそうでしょう? いろんなテレビ局の電波が重なって空間に満ちているじゃない」
「うーん、でも理屈ではわかっても、こう、なんて言うか手ごたえがないんだよな」
「そうなのよ。だから、私も手ごたえを求めて、フェルミの世界に舞い戻ってきたというわけ」
「君の話はどうもわかんないなあ、オレには」
「ほら、この手のぬくもり、懐かしいわ。
それにあこがれの気持ちもこの世界だけのもの。何もかもが満たされたあの世じゃ味わえないわ。
恋も同じ。何でもわかってしまったら恋愛は成立しないもの」
「そうか、恋愛は誤解から生まれるってね」
「この世は有限で不完全だけど、
だからかえってすばらしいんだと思うよ」
「あ、君の名前、ほんとうは何なの?」
「いいよ。ナオミで」
「君のふるさとの・・何だっけ」
「アヴィニョン」
「そこに戻ってどうするの?」
「金色の麦畑、青春のグラウンド、そしてあの小川。
そこでその続きを見るのよ」
「それってオレの夢だぜ」
「あ、そうか」


第13章 アオバズク
 雄一と淳子が家に戻り旅支度を整えていると、雅代からの電話が鳴った。無事チェックインと出国手続きが済み、出発ロビーで搭乗を待つばかりとのこと。

「さて、そろそろわれわれも出発するか。この携帯、下手なカーナビより面白いよ。これがあると、クルマで中仙道をたどるのも悪くないな。どうだろう?」
「あれ、東海道の旅じゃなかったの?」
「東海道はまたの機会にしよう。旅の最初に行っておきたい場所があるんだよ。おととし死んだ高校時代の友人の墓参りにまだ行ってないんだよ。どうもやつがおれを呼んでいるような気がしてね」
「その人のお墓ってどこにあるの?」
「わからないが家族が長野の上田に住んでいる。住所も分かっている。まずはそこを尋ねて、線香の一本もあげなくちゃな」
「上田って真田氏の城下町でしょう? 高校の歴史の先生が真田幸村のファンで、上田の話も聞いたことあるの。関が原に向かう秀忠軍を上田で足止めさせた話は有名よね」
「淳子は、父さんより歴史に詳しいな」
「上田はわたしも行ってみたいな」
「そうか、それなら話が早い。いざ、中仙道を北上すべし。まずは浦和宿だな」
「だったら調(つき)神社にお参りしましょう。お月さまの神様よ。そこで旅の無事をお祈りしなくちゃね」
「旅のはじめに神社か。淳子は古風なとこあるな」
「神社って何か趣があって好きだわ。町なかにある神社でもそこだけは昔の自然をそのまま残していたりして。お寺とはまた違うのよね。縄文、弥生の頃からずっと連続していて日本人のこころのふるさとなのかな。昔は日本じゅうにあった原始の森に、すーと引き込まれていくような感覚が好きだな。そこにはそっとなにげなく神様がいるって感じなの」
「そうか。父さんも神社にはお参りはするけど、そんな印象はなかったな。淳子には霊感が備わっているんじゃないのかな」
「そうかもね」
「じゃあ、さっそく行こうじゃないかその神社に」
 
 調神社はJR浦和駅から南西へ歩いて10分くらいのところに、鬱蒼とした鎮守の杜に囲まれて静まりかえっていた。
 狛犬ならぬ親子兎の石像が二人を迎えた。鳥居がないのもめずらしい。
 境内はセミの合唱に包まれ、街の喧騒から隔絶されていた。平日なので観光客やお宮参りの人もほとんど見かけない。
「なんで調べって書いて『つき』って呼ぶのかな」
「むかしはそう発音していたからよ。この辺で収穫した初穂をここに集めて伊勢神宮に御調(みつぎ)物として納めたのよ。でも、室町時代になって月を拝んで無病息災を願う民間信仰が取り入れられて、いつのまにか『調』が『月』になったのね」
「だから境内にこんなに兎がいるのか」
「そう、兎は月の神様のお使いだからね。さあ、お参りしましょう」

 二人は拝殿の前で静かに手を合わせた。一羽のアオバズクが二人を鋭い眼差しで見下ろしていた。
 雄一はその場を去ろうとしても、淳子はいつまでも手を合わせたままだ。
「淳子、行くぞ」
 そう声を掛けても返事がない。淳子の体は小刻みに震えている。
「おい、淳子」
「・・・」

しばらくして淳子は正気に戻ったように、雄一に向かって笑みを浮かべて言った。
「さあ、中仙道の旅に出かけましょう」

第14章 インフィニティ
 7月13日11時37分、定刻より2分遅れでプライマリ航空のエラトス社757-401 TN211便が飛び立った
。しばらくしてベルト着用のランプが消えた。
「着くまで退屈だなあ」
「途中、フランクフルトに立ち寄るよ。寝てれば。 着いたら起こしてあげるから」
「眠くないよ」
「これを飲めば」
「睡眠薬?」
「普通の睡眠薬とは違うわ。蝶になる薬。蝶になってひらひら空を飛んでるうちに時間はあっという間に過ぎちゃうから」
「蝶になんかなりたくないよ」
「そう? あの世では、人間よりも蝶やセミになりたいと思う希望者が多いのに」
「セミなんか、もっとイヤだよ。地中に7年ももぐって暮らすんだろ。やっと地上に出ても1週間の命だよ」
「セミはこの地球に何億年も前から生きている大先輩。地球の環境の大変化にも生き延びてきたの。なかには
17年も地中で生活して、17年ごとに一斉に地上に出てくるセミがいるのよ」
「17年は長いな。オレの年と同じじゃん」
「そうね。でも私だって47年間待ってたのよ」
「退屈じゃなかった?」
「それは人間の感覚。あなた、お母さんの子宮の中にいるとき退屈してた?」
「そんなの覚えてないよ」
「そうでしょう。それと同じよ」
「ふーん。そんなもんかな。でもやっぱり17年は長いよ。どう考えても」
「そのセミは今年、アメリカ東部で大発生しているよ」
「ほかの年は出てこないの?」
「アメリカ東部ではそうよ。13年に1度というセミもいるわ。13も17も素数。不思議だね」
「素数って?」
「1とその数自身以外に約数を持たない数。2、3、5、7、11、13、17、・・・無限に続くよ」
「そうだ。それを数えていれば眠くなるな」
「じゃ、暇つぶしに1000までに素数はどれだけあるか調べてみたら? 素数を詳しく調べたら大発見があるかもよ」
「よおし」

 飛行機はロシアのツンドラ上空を飛行していた。
「今どのあたりかな」
「41まできたよ」
「え? もしかして1から順番に素数かどうか調べてるの?」
「そうだよ」
「もっといいやり方ないの? ガウスが小学生のとき、1から100まで足す計算を、他の生徒がまじめに順番に足していたのに、数秒で解いて先生を驚かせた話知ってる?」
「いいじゃん。暇つぶしなんだから」
「まあ、そうだけど」

「それにしても素数の出方は不規則だね」
「そうでもないのよ。ガウスが15歳のとき見つけた素数の出方に関する定理があるよ」
「うーん、ガウスってすごいんだね」
 ミノルは61あたりで睡魔に襲われ、虚数時空を蝶になって羽ばたいている夢を見た。
「ミノル君、虚数を使ってごらん。もっと正確に素数の出方を予想できるよ」
「あ、あなたはだれ?」
「数学の精。向こうに甘い蜜があるわよ」
「あ、待って・・・」

 いいところで目をさますと飛行機はもうフィンランド上空まで来ていた。

第15章 地上の銀河
  淳子の携帯にメールが届いた。
「だれからかしら―変なメールが来たよ」

 はじめまして。旅行ガイドの佐久間です。長野市松代に住んでいます。貴方は19歳の学生さんですね。
よろしければ旅のお供をさせていただけませんか? わたしはボランティアですから謝礼は一切頂きませんし、
メール代等通信費もかかりません。
さて、調神社はいかがでしたか? 社殿は1859年に建てられたものです。安政の大獄の年ですね。
これからどちらに行かれますか? 中仙道を北へ向かうのであれば、大宮氷川神社へ行く途中、
与野駅前に一本の大きなケヤキがあります。これは半里塚の跡で、このあたりは「六国見」といって、かつては武蔵、
相模、甲斐、下野、上州、信濃の山々が見えたそうです。往時の偲ぶ1枚の絵を添付しましょう。
浦和宿から浅間山を望んだ英泉の浮世絵です。建物にさえぎられて景色が良く見えないときは、
携帯の4Dマップをお使いください。  
では、楽しい旅を。
「個人情報じゃないか。これは問題だな。旅行会社に苦情を入れておこう。淳子が若い女性だからメールよこしてきたんだな。
下心があるのかも知れない」
「何でそんな言い方するの? 私、別に気にしないよ。佐久間さんっていう人、そんな悪い人じゃないよ、きっと。
私、中仙道歩いていくから」
「おいおい、京都まで歩いたら何日かかる。途中で、その男、待ち伏せして声掛けてくるかも知れないぞ」
「心配性ね、父さんは。私もう子供じゃないよ。父さんはきょうどこに泊まるつもり?」
「そうだな、伊香保温泉っていうのはどうだろう」
「あ〜あ。私、大宮まで歩いていったん家に戻るわ」
「伊香保温泉は冗談だよ。でも、父さんもそうするよ。クルマはやめて中仙道を歩いてみるか。
お前を一人にするわけにはいかんしな。携帯、電源切っとけよ」
「いやだなあ、もう」
「じゃあ、5時に与野駅東口で落ち合おう」
「6時でいいよ。ゆっくり歩きたいから」
「そうか」

 淳子は父から離れてほっとした。浦和宿に入り、真言宗の古刹、玉蔵院に立ち寄った。
地蔵堂があり、その中には木でできたお地蔵さまがまつられている。浦和という町はこのお寺を中心に発展してきたとのこと。
陸橋でJR東北線をまたぎ、「一本杉」と書かれた石碑の前に来る。ここで1864年、丸亀藩の浪人が日本で最後になった
仇討ちで命を落とす。近くの廓信寺に葬られている。与野駅が近づいてきた。残念ながら遠くの山並みは見えず。
そこで4Dマップを使うことにした。1862年の六国見から見たパノラマを映してみる。
江戸時代の空気はどこまでも透明であった。

6時前に与野駅に着きケヤキの木の前で、携帯で時間をつぶしていると父がクルマで迎えに来た。
「変な男に声かけられなかったか?」
「だれにも。この4Dマップ、すごいわよ。水平にすると、ほら、星のような点。何だかわかる。当時の人よ。
街道に沿ってびっしり。まるで天の川だわ」
「氷川神社に行くか?」
「もう、疲れた。明日にするわ」

第16章 北方の神話
 高校の数学の授業。ミノルは退屈しきっていた。隣を見ると、窓側の席でナオミが真剣なまなざしで授業を聴いている。ナオミだけじゃなく教室全員の顔が輝いている。
 数学のどこがそんなに面白いのだろう。そう思いながら教科書に目を向けた。するとどうだろう。インクで印刷されているはずの紙の上のグラフが動画のように動き回っているではないか。色彩も時間の経過とともに目まぐるしく移り変わる。まるで万華鏡のようだ。

「どうだね。驚いただろう。複素数が確かに実在することを理解できたようだね。見えないからといって存在しないと決めつけては駄目なんだね」
「先生」
クラス代表の西野が質問した。
「何だね」
「ぼくはやっぱり複素数平面が無限に続くってえのだけはどうも気に入らないのですけど」
「リーマンという19世紀中頃の数学者が、複素数平面の四方八方に広がる無限大を球面の北極のたった1点に対応させることで、有限な球面を用いて、無限に広がる平面を対応づけたんだが、同じ発想で、われわれは全宇宙を手のひらに載せた水晶球に閉じ込めることだってできるのだが、それが君の質問への答えになるかな?」
「だったら、素粒子の1点を全宇宙と対応させるってこともありですか?」
「ミクロとマクロの世界は表裏一体だから、わたしはありだと思うね」
 ミノルにはさっぱりわからない。自分だけが取り残されているような気がした。授業が終わってからナオミに聞いてみた。
さっきの話、理解できた?」
「リーマン地球儀の話ね。科学館のリーマン広場にあるドーム。広場一面にあるレーザー光源がドームの北極点めがけて照らされて、それがドームの表面に地球の北半球を映し出しているの見たことないの?」
「へー、そんなのあったっけ。君たちはまるで別世界の人間のようだな」
「わたし、あれを見たとき世界観が一変しちゃったわ。もしかして、私たちが見ているのは何かの映し絵じゃないかって」
 教室の窓は夕陽に照らされ、窓の外には波が打ち寄せる音が観える。窓の外をのぞくと、校舎のすぐそばまで海が近づいていた。ミノルは窓から砂浜に降りた。
「ナオミも来ないか。砂がさらさらして気持ちいいぜ」
「気をつけてね」
 ナオミは笑いながら窓から答えた。
「なんともないよ」
「あなたはまるで浜辺で遊ぶ少年。真理の大海はその先に未知のまま広がっているのよね」
 そう言ってナオミは笑いをこらえている。
「海の向こうの世界に?」
「そうね。海辺の貝殻を拾って遊ぶ私達は実数の世界から抜け出せないでいる。ね、行ってみない?」
「どこへ」
「甘い蜜の花園。私、先に行くわ」
 そう言うやいなやナオミは蝶のようにふわりと窓から宙に飛び出していった。
「おーい、待ってよ」

 夢はそこで終わった。
飛行機はフィンランドの森と湖の上を、まるで翼を手に入れたイカロスのように飛翔していた。カレワラの英雄は、何を求めて旅をしていたのだろう。ユーラシア大陸の北方を、ときにバイカル湖の静かな湖面に慰められ、またあるときはウラル山脈を遥かに望み、そしてバルト海に到る。日本列島のわれわれと彼らは神話の時代つながっていたのかもしれない。
第17章 わだつみ
   夜、淳子に佐久間からの2通目のメールが届いた。

 こんばんは。今日の旅はいかがでしたか? 今日は旅のほんの入り口です。これから驚きに満ちた世界をご案内しますので、ぜひとも私と通信してください。
まだ返事はいただけませんが、やはり私のことを怪しまれているのでしょうか? ここ松代の部屋から一歩も外に出られない私は、貴方と接触する手段はこのメールだけです。貴方と会ったりすることはできません。交信内容も外部には漏らしません。安心してください。
さて、イラク戦争、自衛隊派遣、そして小泉首相の靖国参拝、教科書問題、竹島、尖閣諸島の領土問題、中国、韓国での反日運動など、日本をとりまくアジア情勢が複雑化する今日ほど、アジアの歴史を正しく認識することが必要な時代はありません。
明日はいよいよ大宮氷川神社ですね。古代史のロマンへの入り口です。氷川神社とアジア、いったいどう関わっているのでしょう。そこでこの神社のことをちょっとだけ予習しておきましょう。
 この神社は成務天皇の頃、出雲族の人々がこの地に移住してその祖神を祭って氏神としました。成務天皇の実在性は疑わしい点もあるのですが、西暦300年前後と推定されています。成務天皇の異母兄の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は九州や東北に転戦したという神話があります。3世紀の卑弥呼・邪馬台国の時代から、4世紀の大和朝廷による日本統一までの1世紀の間の出来事に関係がありそうです。
 その時代を解くカギの1つがこの神社であり、出雲族、または安曇(アズミ)族といわれる人々です。これを探ることによって、古事記、日本書紀に隠された真実があぶりだされます。それでは、海の視点で日本を取り巻く東アジアを見直してみましょう。
紀元前より東シナ海をわたって日本列島に多くの人々が漂着し、日本人の祖型を形成していったことが最近の考古学の研究で明らかになってきました。弥生時代・稲作イコール朝鮮半島経由では必ずしもなかったわけです。

安曇族は南方民族であり航海術に優れていました。しかし、紀元前後に朝鮮半島経由で北方系の人々が九州地方に渡来し、3世紀に徐々に勢力を伸ばし、ついには大和政権を成立させました。その過程で安曇族の人々が宥和あるいは征服されていったと考えられるのです。それがまさに西暦300年前後だったわけです。(安曇族と出雲族はここではとりあえず同じと仮定しましょう)
古事記や日本書紀にはその過程を推測させるような神話が多くみうけられます。
例えば、3世紀までの日本では、女性イコール太陽でした。卑弥呼が権威を保てたのもそういう南方系の信仰が背景としてあったからです。ところが大和政権(天皇家)は北方系の氏族で家父長的な社会でしたから、男性イコール太陽、天つ神(天孫降臨)だったわけです。
大和政権が成立した後、日本の神話を整理、統一していく過程で、日本に広く流布していた女神信仰を無視することができず、結局みずからの神話を一部修正せざるをえなかったわけです。
安曇族は日本列島に海ルートのネットワークを持っていて、大陸ともつながっていました。出雲を中心とする神話は無視できない存在でした。10月に神々が出雲に集合するという神無月の話もそのひとつですね。
古事記、日本書紀の神代紀には、大和政権が自己に都合のよいように改変した部分も多いのですが、その奥に安曇族のわだつみの声が聞こえてくるのです。
この氷川神社にもそうした出雲系の国つ神(土着の神)が奉られています。ヤマトタケルが東征したころ、それに協力したのでしょうか。日本各地にネットワークを持つ安曇族の人々は大和政権の日本統一には大きな力になったはずです。ヤマトタケルは大和政権では異端でしたから、安曇族と通じていたという可能性もあります。その統一の過程で出雲系の人々がこの地に移り住んできました。私はヤマトタケルと源義経がだぶってしまいます。
日本人の血には、遠い南方の記憶が刻まれていることを今改めて思い起こしてみようではありませんか。
それでは、明日、氷川神社でお会いしましょう。
おやすみなさい。
第18章 遠い地平線

ミノルがフィンランド上空での夢から醒めると、母の雅代は公園に来たときから途切れていた意識を取り戻していた。ミノルはフランクフルトで別の飛行機に乗り換えるとき17歳くらいの東洋系の少女を見かけた。一瞬ナオミだと思った。その少女はミノルとは別の飛行機に乗り換えたので言葉をかける機会を失ってしまった。

伯父の澄男が営むペンションのあるゴルド村は風光明媚なところだ。ペンションの窓からはバベルの塔にも似た小高い丘が見える。近くにはセナンク修道院があり、その女性的なロマネスク様式が近代建築に疲れた現代人の心を和ませてくれる。
雅代は敏幸兄と20年ぶりの再会を果たし、プロヴァンスの観光地を巡り帰国した。ミノルは澄男が勧めてくれた寄宿学校に入学した。驚いたことにミノルが入学する3日前に、フランクフルトで見かけた少女も同じ学校に入学していた。その子はベトナム人だった。

秋が深まったある日、ミノルはゴルドから北西に20キロ程行ったところにあるフォンテーヌ・ド・ヴォークリューズ(渓谷の泉)という処へ二人の伯父といっしょに行った。その泉からはこんこんと清水が湧きだし、澄みきった小川に注がれていた。ミノルはナオミがふるさとの小川といっていたのはここに違いないと思った。
それ以来、週末になるとスケッチをしにその小川に足繁く通うようになった。
1年後、ベトナムの少女とその小川に行くことになった。夢の記憶があるので初めてのデートという気がしなかった。この小川に何か思い出はないかと聞いてみたが、特別にないという返事だった。やはりミノルが勝手にその少女とナオミを重ねようとしているだけなのか。

 1年半が過ぎた。ミノルは明確な信念を持つようになった。インターネットが社会の仕組みを変え、世界は変わるということである。
そのことを敏幸に話したら、コンピュータと通信技術をベースに世界共通の新しい会話ツールを創ろうとしたかつての夢を語ってくれた。特定の自然言語をベースにするのではなく、エスペラント語のようなものを考えていたらしい。ミノルが入学した寄宿学校はポポロ学園という。「ポポロ」とは、エスペラント語で人々(People)という意味だ。新しい世界共通語を使うことで国際社会の人々が対等に付き合えるという理想を持っている。
澄男はバベルの塔の話をしてくれた。人間は天にも届くような塔を造ろうとした。そのおごれる心に神は怒り、人間の言葉をお互いに通じないばらばらなものにしてしまったのだという。しかし、現代人も同じあやまちを繰り返そうとしていると言った。  

ベトナムの少女は母国の大学に進学するために帰国した。彼女は卒論のテーマにベトナム戦争を選んだ。そのときの枯葉作戦で今でも多くの人が苦しんでいるという。しかしアメリカは敗れた。それがまさに近代の終焉を意味していた。軍事超大国が小国に勝てない時代になったのである。
ベトナム戦争が終結した1975年こそまさにパラダイムシフトの始まりだった。第三の波(農業、工業に続く情報化の社会)、脱工業化社会、ポストモダンと言われる時代の到来だ。

近代が終わり、近代以前に似た時代が来る。人間のおごりの象徴であるバベルの塔は崩壊し、石はシリコンに生まれ変わりその中を光が走る。人間の地平線は遠くまで広がった。
ミノルは日本を離れてゴルドという近代の波から取り残されたような場所に来たからこそ、そのことに気が付くことができた。卒論のテーマにそのことを書いた。そして2006年3月、帰国することにした。

第19章 未来へ(最終回)

3月4日にミノルは帰国した。姉の淳子も帰省したので翌日の日曜日、家族4人で外食することになった。1年半前の出発前夜と同じレストランに来た。久しぶりに家族がそろい楽しい時間が過ぎた。

「姉さんの旅はどうだった? いいことあった?」

「すばらしいガイドさんのおかげでね」

「父さんのこと?」

「まさか。佐久間さんっていう70歳くらいの物知りなおじさん。携帯電話使った旅行ガイドをやってるの。私は初めての客だったから無料だったんだけど、今は有料にして結構人気らしいよ」

「ほーう、そんな商売があるのか」

 雄一はわざと感心したような口ぶりだ。

「最初、父さんは怪しんだのよね」

「そうさ、頼まれもしないのにメール送ってきて。そんな暇人にろくなヤツいないと思ったからな」

「佐久間さんは病気で好きな旅行ができなくて、趣味と実益を兼ねてガイドをはじめたんだって。自宅のパソコンからお客の携帯に旅の情報をリアルタイムに提供するのよ」

「70歳でパソコンできるってすごいね」

「うん、家にずっといて退屈だから覚えたんだって。わたし、佐久間さんの影響受けて自分も旅行ガイドになろうって思うようになったの」

「旅行ガイドだって資格があるだろう?」

「そう、旅行業務取扱管理者。国家試験だよ。秋に試験があるから今その勉強してるの」

「おい、大学を卒業するのが先決じゃないのか?」

「大学の勉強もちゃんとやってるって。ねえ、ミノル、またフランスに戻るの?」

「おれ、今度はベトナムに行きたいんだよ」

「へぇー、すごいじゃない」

「ベトナム語、少し覚えたんだ」

「何でまたベトナムなの?」

 雅代は心配そうにミノルを見つめた。

「面白そうだからだよ」

「ベトナムで何するの?」

「まだ決めてないよ」

「生活していけるの?」

「何とかなるさ」

「ベトナムって社会主義の国でしょう? 日本みたいに自由な生活はできないよ」

「そうでもないよ」

淳子が口をはさんだ。大学の歴史研究サークルでアジアの勉強をしていたので、ベトナムの経済自由化政策など今の国情をみんなに説明した。

「そう、ベトナムはこれから発展するさ」

 黙って聞いていた雄一が口を開いた。

「路上生活者になる覚悟はあるのか?」

「日本みたいに寒くないから、どこでも野宿できるさ」

「相変わらず甘いな。野たれ死にするぞ」

「敏幸伯父さんは20年近く野宿して生き延びたんだよ。俺だってできるさ」

 ミノルはのんきそうに笑ってそう言った。

雄一は不機嫌な顔つきになって話を続けた。

「ミノル、これからどうするんだ。高校も休学のままだし。ポポロ学園を卒業したと言っても大学には進学できんだろう。今の若いもんはニートとかフリーターとかぶらぶらしてるのが多いが、お前もその部類か」

 ミノルはむっとした顔をした。せっかくの楽しい雰囲気は台無しになってしまった。


「部屋に引きこもっているよりいいんじゃないの? それに父さんの時代とは違うと思うな」

 淳子がそう言うと雄一はますます険しい顔になった。

「何が違う。いつの時代だってしっかりした考えの若者はいる。ちゃんと就職してまじめに働いている。いつまでも浮ついた気持ちでいるとあとで後悔するぞ」

「ミノル、浮ついた気持ちでベトナムへ行きたいって言ってるの?」

「違うよ。地球市民になるためだよ。これからは国境なんて無意味になるからね」

「それとベトナム行きとはどう関係あるの?」

 淳子はミノルの返事に期待を込めてそう質問した。

「伯父さんは次の文明は東アジアから生まれるって言ってたよ」

「黄河文明みたいな」

「そうじゃなくて、情報革命がもっと進んで生活様式が変わるんだよ。たとえば携帯電話とかインターネットがどんどん普及発展していったずっと先の世界だよ」

「それは東アジアに限った話じゃないと思うけど?」

 雅代がそう反論した。

「いや、東アジアはほかの地域と違った特徴があるんだよ。ね、姉さん?」

「佐久間さんに聞いた話だけど、数千年昔、揚子江あたりに暮らしていた人たちが、寒冷化で南下してきた北方民族に追われて西へ、南へ、東へと逃げて、西へ移住した人は中国の雲南地方に、南へ移住した人は東南アジアに、東の海へと逃れていった人が日本列島に移り住んだらしいの。だからこの地域は文化的に共通したところがあるんだけど、そのことと関係あるの?」

「インドから日本列島にかけての海沿いの地域は海の文化と陸の文化のせめぎあいというか緊張関係があって、たとえば、市場経済と社会主義計画経済。貧富の差。そうした対立とカオスのエネルギーが満ちているんだよ」

「それが東アジアの特徴なわけね」

 淳子はその考えには得心した。

「ソ連のような社会主義はとっくに破綻したじゃないか」

「それはソ連が情報革命の波に乗り遅れたってことで、社会主義がだめということじゃないと思うな。市場万能主義だって、ライブドア事件が起こったように問題があるじゃない? 2つの仕組みは互いに補いあう関係にあると思うよ」

 雄一が反論しないので、ミノルは得意になって自説を話し続けた。

「ヨーロッパではユーロという共通通貨を使い市場を統合しようとしているけど、アジアはもっと違ったかたちで融合発展するんじゃないのかな。たとえば電子マネーを使ったサイバーマーケット。すべての商品にICタグのようなものが付けられ、そこに原産地情報や付加価値情報が書き込まれる。消費者は携帯電話などで簡単に参照できる。そうなるともう国境はないよ。鉄道会社のメロンカードのようなものをイメージしてよ。鉄道の改札でも、スーパーの買い物でもどこでも使える電子決済カードだよ。商品やサービスの付加価値が市場でグローバルに評価されるわけさ」

「そうなったら完全な水平社会だね」

 淳子はミノルの話に共感した。

「オープン化は、生産者間だけではなく、消費者の世界、そして国境を越えて広がっていくはずだよ」

「勉強してるな。視野が広がったじゃないか」

 雄一はミノルの意外な一面を知って驚いた。

「だから、社会主義国のベトナムでそのことをこの目で確かめたいのさ」

「世の中そんなに公式どおりには行かないと思うが、ミノルの言ってることには一理あるな」

「じゃ、ベトナム行き、OKだね」

「反対はしないけど、母さんにあまり心配かけるなよ」

「わたしも別に反対じゃないけど。でもやっぱり心配だね」

「かわいい子には旅をさせろって言うじゃない。ミノル、よかったね」


 淳子のサポートのお陰でミノルはベトナム行きを両親に認めてもらうことができた。食事を終えて家に帰るとき、上弦の月が西の空の雲間に見え隠れしていた。

「あなたもずいぶんと物分りが良くなったのね」

「おれは昔から物分りはいいよ」

「会社休んで旅に出るとき、会社の出世はもう結構、これからは家族を大切にって言ってたもんね」

そんなこと言ったか?」

「上田にお友達のお墓参り行ったんでしょう?」

ああ、上田はいいとこだったよ」

それだけ?」

それだけだよ」

「そのお友達の奥さんから夕方電話があったけど」

「なんで教えてくれないんだよ」

「携帯の方へ掛け直しますって言ってたからよ」

「そうか。休みは携帯の電源切ってるよ。たぶん息子さんが上京するからその相談だろう」

「あら、めんどうみがいいのね」

「奥さんもだんなが亡くなって心細いんだよ」

「お気の毒にね。あなたもあまり無理をしないでね。もう若くないんだから」

「わかってるよ」

「それにしてもミノル大丈夫かしら。ベトナムにはテロとかないのかしら」

「そういう話しは聞かないな。ま、心配ないよ。ずいぶんとしっかりしたこと言うじゃないか」

「口が達者になっただけよ。まだ子供だから。あなたにはもう少しがんばってもらわないとね」

いつになったらゆっくり休めるのかねえ。でも、まだ老け込むのは早いからな

「そうね、淳子とミノルがちゃんと独り立ちするまではね」

「子供は親の気持ちも知らないで」

「そうだね」

                     (完)



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